· 

逆逆びっくり特集 イギリスからフィンランドに帰国

 イギリスの私立と公立の学校訪問に行ってきました。この訪問レポートの成果は貴く、時間をかけてまとめる予定です。特に母語としての英語教育の徹底ぶりと、豊かな内容は、ESLほど、実は英国からもっと学んでも良いのではないかと感じます。日本の国語教育にも豊かな教材や教え方がたくさんあるように。その言語のProperty(所有財産)はその母語教育から学び、その上でSLA(第2言語習得)で気を付けることと照らして、独自の取り入れ方をすると良いと思います。

 

さて、本日はヨーロッパからフィンランドに帰って、改めて感じたことを忘れずに記します。人は、「そこに普通にあるもの」にはすぐに慣れっこになってしまうのか、私はフィンランドにまだ4か月ぐらいしか居ないのに、フィンランドの教育にすっかり慣れてしまって、実は新しい目でレポートできていないと、気づかされました。

イギリスの学校は、実に様々で、名門校から公立、私立、グラマースクールとあり、これがイギリスの学校だというようには言えないかもしれません。しかし、それでも、私の関心事は、社会の多くの階層に門を開く、「公立」の教育がどうなっているか、教員養成や、予算、社会の仕組みはどうなっているかということにつきます。

今夜、フランクフルト経由でフィンランドに到着。極寒のヘルシンキで、あ~帰ってきたなとほっとしています。雪でもう道路も路肩も区別がつかない道を土曜日なので皆さん元気に出かけています。ヘルシンキの街から自宅に帰るにも、20時で最終電車は終わっていたので、バスを予約しました。夜中に出て夜中の3時にユバスキュラにつきます。たった15€(2000円)で長距離バスですが、夜ご飯はレストランで食べると50€はします。不思議な国で、生活に絶対必要なものは驚くほど安く、少しでも贅沢種類の支出は高いのです。タクシーは10分基本料金でも15€(2000円)。

ヘルシンキに到着すると、なんだか静かで、人々が秩序の中で、すいすいと電車に向かいます。雑踏のヨーロッパから、この国に帰ると逆に驚くことがいっぱいでした。高度な機能を備えた空港からのRailWayは、スペースがたっぷりで(UKのTubeはもう歴史が長いので本当にチューブのように狭い・・それがまた名物ですが)、空港ではさっそく、子供と家族ではいれる綺麗なトイレが完備されています。チケットはバイリンガルで購入完備(イギリスはもちろんのことモノリンガル=英語のみ)。人々がほとんど、本を読むか、PCで何か書き物をしていることが多い車内でした。Wifiはすぐに繋がります(イギリスやドイツは、登録が必要だったり、Wifiはときどき切れる。地下は仕方がないですね)。レストランで夕食を頼んでいると、座っている人々には、女性同士も多い。土曜の夜はこのように女性同士飲んだり食べたりということが多く、あらゆる年齢の人がレストランにいる。(イギリスもこれは似ているが、ややカップルでの外出か、若者が夜に出ているイメージがあった。ロンドンだけかもしれない)。フィンランドでは多くの女性が有職者であり、出世もするし、管理職も多い。社会的な問題に関心が高く、自分も何か役割が出来るという意識が高いように思う。だから、離婚率も高い。一人でも子育てに困らないし給料にもあまり困らないからだと聞く。

 

学校環境と教育制度が、北極と南極ほどに、正反対であることに驚きました。全ての子どもに等しい教育をしようとCreativityとInnovationの改革を続けるフィンランドと、大英帝国の昔から、名門校出身の社会人がイギリスの階層社会の上にいて、世界の中心、イギリス(The U.K.)という自負を信じ切っているという違いがあります。GDPや国の豊かさから言えば、フィンランドがここまで教育に予算を準備できているのは驚嘆です。(とフィンランドに居ると、差に気がつかない)。逆にイギリスは、名門校は設備が違うのだが、公立も私立もなかなか大変であると思います。初等教育が最も大事であると考えそこに予算を充当する余裕は無いように見えます。イギリスは、人種の坩堝でもあり、政治のせいもあり、いつのまにか、「世界のイギリスを自負しているはず」の公立学校の制度や内容が、ヨーロッパの国の中でも、相対的に下がっていることに気づいていないのではないかと感じます。オランダなどは非常に発達しており、ドイツは20年前でも、今のフィンランドに負けないぐらいの設備と教員研修をしていました。

 

問題の1つ目は、厳しい学校評価制度と、学校選択制だと感じます。

学校のHPを開くと、子供の創作や笑顔、先生一人一人の創作頁が見れるフィンランドに比べると、イギリスの学校HPは、まず数字が出てきて驚きます。(オフステッド学校評価のRateである)。学校評価制度が厳しく、先生方はいつも、子供を見つめるというよりも、チェック表をもって生徒の到達度をチェックしています。何かに追われているようです。ベテランの先生は、それでも子供の方を見ていますが、新任着任時よりこの制度に慣れると、生徒がどれぐらい深く考えたか、よりも、今クラスの何パーセントがどこまで到達したか、保護者にどう伝わるか、校長はどう見るか、にしか興味がなくなると思いました。先生方は一生懸命指導に当たっておられますが、学校評価制度に翻弄されてしまっています。保護者はどの公立に入れるか、入学前の早くから登録をします。人気のある学校では外れてしまい、第2希望、第3希望と下げていく。とうとう行く学校が見つからない例もあるぐらいだといいます。まだ6歳の子どもにこれは酷です。親も何十キロも離れたところまで車で連れて行く、または巡回バスに1時間以上ゆられて行くことにもなります。先生も疲れてしまい、保護者も疲れてしまうだしょう。何のために学校選択制をしているのか不思議です。フィンランドの様子からみると、とにかく政府は、「学校の教師の自主性ややりがい」というものを尊重しておらず、信じていないから、評価をしているようにも見取れます。「私たちは教師として信頼されているのでやりがいがある。」と、殆どの先生がおっしゃるフィンランドとは、これは正反対としか思えないです。インスペクターや 管理職が、教室に入り込み授業を査察するわけだが、これは、見るほうの目がずいぶん育っていないと、良い授業と良くない授業の区別がついていないようです。人が人を評価することほど難しいものはないです。まして教育というものは、その場の20分とかで何にも評価できないはずです。私が訪問させていただいた学校は、対外的に高い評価を得ている学校で、先生方の工夫や教材の準備などは素晴らしいものでした。しかし、そのような先生の数が今後も保てるのかは心配です。国が先生を信用しなければ、良い先生ほど職場をあきらめるのではないかと思います。また、アシスタントの先生の割合が相当多いです。この制度が良い面もあるが(人数を低い給料で確保しているように見える)、T1同等の授業力があってのアシスタントである先生ばかりではないです。「パート的で、生徒の面倒を見る・・」というのは、教師とはいえないです。評価をする校長はその地域でベテランの教師を務めてきたものでなく、全く他から、文脈無しに候補から選ぶそうです。学校の評議員が面接などの担当するようです。面接だそうだが、尊敬されるべき校長が、自分は授業をあまり上手く進めた経験が無い・・ということも多いようです。昨年、コッツオルズで昨年訪れた学校は、たまたま校長先生が尊敬を集めていて、アセンブリー(集会)でも、子供らに沁みとおるような話をされていました。学校全体は予算は足りないようでしたが、どの先生も遣り甲斐を感じていて、教育実習に来る学生は、「この学校がいいと聞いて申し込んだ」といっていました。

 

問題の二つ目は、教員資格や教員養成である。

教材や本、教室環境、オープンスペースは、日本よりは十分あるものの(とにかく物的な教材や施設は、日本は悲しいぐらい世界的に低い)、クラスは30人程度で、教室の大きさは少しきゅうきゅうでです。また、職員室らしいものがなく、自分の教材はすべて子供たちと同じ教室にあります。会議室は特になく、教室で打ち合わせをします。ソファのあるCoffeeルームはあるので、そこでホッとできるのは良いですが、フィンランドの教員オープンスペースと職員室と、両方あることに比べると、EUの豊かな国イギリスとしてはちょっと驚きです(EUをもうすぐ離脱する?)。先生方の教員免許制度が根本的に異なります。イギリスでは、大学の教育学部(3年しかないようだ)での実習がないそうです。教師になるには、QTSという資格をとるために、1年間、学校で実習をしなければなりません。1年間も実習できるのだから良いと思われるかもしれません。しかし、その間、スーパーバイザーは誰がどこまで・・・となると、理論と実践の往還とは行かないです。そこの学校に良い先生がおられれれば、徒弟制度的に学べる程度という事になりはしないか。何のための大学なのか、ちょっと調べないと分かりません。実際に2名ほどの実習中の方がおられたが、収入は無いので、別のアルバイトを掛け持ちしながら、資格をとることも多いそうです。教員試験は、数学と国語(英語)だけです。イギリスの先生は、第2言語を話すというバイリンガルは少ないようです。英語が世界で使われるのだから不要なのでしょうか。複合的な視野を持つには、わたしは上手でなくても第2、第3、と経験したほうが良いと思う。

フィンランドの教師はたいてい三つは話します(フィランド語、スウェーデン語、∔1~2)。フィンランドの教師は全員修士号をとるが、学部から修士まで5年間で、教育実習は毎年積み上げていきます。年ごとに目的も、到達内容も異なります。1年目は観察が主で入り込む、実習期間以外も受け入れてくれるので、やる気のある学生は頻繁に学校に行っても良い。2年目は、授業の一部を準備して行う。担任との議論時間をしっかりとる。3年目は、一日とか、1プロジェクトとか、長期の実習をする。また、半年間以上、学校に出入りしては、自分のテーマを絞っていく。4年目は、学校の職務や経営についても学び、生徒中心の授業の良さや、コラボレーションなど、現代的テーマについて理論的に学び、それを現場で実践し、データ収集もする。5年目は、わたしがよく訪問する附属だと、5回生が、PCやカメラ、ソフトを持ち込み、生徒らが授業中どこを見て学ぼうとしているかアイトラッキングの実験を行っている様子など、またそれを指導する教授や、大学のコーディネーター、実習先の校長、担任と、「教育の在り方を追究する」専門家集団なのである。

つまり何が違うかというと、「教育としてのプロ」を十分な奨学金(大学は無料なので不要だが)と、学生という5年間をたっぷりかけ、理論と実践の往還をする教員養成で修士をとるフィンランドと、教師になって食べていくために、パートをしてでも、1年間で資格をとり、2教科の試験だけで先生になるというイギリス、という対照になる。フィンランドの学生は学生時代に殆どエラスムス制度などで、海外の学校や留学を経験しており、英語はフィンランドの学校教育で大丈夫なので、留学ではフランス語、ドイツ語などのレベルをあげてくる。イギリスは最近まで大学が無償だったのに、突然、どんどん上がったそうです。今は学生時代に奨学金を「借りて」、就職したらしばらく返済が続きます。これは苦しい。教員がおちついて仕事をするには、この状況は難しいです。イギリスの政治に詳しくないので政治への言及を避けますが、政府が公への等しい教育を重視していないのは否めないと言えます。大切な初等教育の教員について、「教師としての誇り」を与えていないように見えます。または、教育を分かっていない政治家が教育を左右しているのであろうことは想像に難くないです(日本もそうです)。

 

問題の三つ目であるが、これは答えが出ないのだが、リテラシー育成の不思議である。

イギリスの母語教育(国語)はとても良い点があるので、これについては別途まとめます。Earlyの幼稚園4,5歳を見学すると、砂遊びや造形遊びのほかに、シンセティックフォニックスの初歩のところを絵や音声で教えています。音韻認識を育てる大事な時期ですが、そこの専門性や目的を明確にもっている先生ばかりでもないようです。数についても操作をとおして既に10の補数などをやっている。5,6,7,8歳は、音と綴りの関係が不規則な英語では、読めない、書けない生徒が落ちこぼれてしまわないように、段階的な教育が行われている。Year 1(6歳)の6月には全員にフォニックスのスクリーニングテストが行われ、どのように今後サポートが必要が、個々に把握するようだ。母語が英語で、話すほうは何の不自由がなくても読み書きができるようになるには、8歳ぐらいまで十分な時間と指導を行っている。(ここはESLの指導へとしっかりイギリスから、学ぶべきところである)

フィンランドでは、幼稚園ではこのような読みや数字は教えない。読み聞かせはする。1年2年は、母語のフィンランド語に大変時間をかけており、2年生の教室ではiPADをつかって、絵と文で物語を作ったりするところまで行く。そのまま母語教育はいい形で続行だが、3年生から英語が始まる。最初はHello, から始まりDo you like? などのやりとりをしている。フォニックスを全く知らない先生はいないが、それほどリテラシー教育の専門がいるわけでもなく、所謂 アナリティックフォニックスの初歩~中級をするが、UKやUSAのように、丁寧な指導は無いのである。英語のスペリングテストは5、6年生はする。4年生になると、3行ぐらいの文章を、カッコの単語を入れ替えながら書いている。字の形や書く力はかなり差があるが、フィンランド語は語源が全く違うとはいえ、アルファベットを使うので、そこは早い。しかし音と綴りの関係がすっといくのはなぜであろうか(この点もっと私が研究が必要です)。6年生になると、私たち外国からきたものにも、何が趣味かとか、どこに住んでいるとか、ランチを食べているあいだずっと簡単な英語でも大丈夫である。生徒らは難しい表現は使わず、初歩の英語をずっと使って何かグループワークをやるということに慣れている。実際に私たちの実習訪問でも、学生の英語ドラマを全部理解し、スキットを一部書いて演じる場面では、英語で話しながら、3行から6行ぐらいの会話文を、楽しそうに書いている。綴りはときどきわからないと手を挙げてサポートを求めたり、1人1台必携のiPadで調べたりしている。

 

イギリス人は母語である英語を高度に豊かにするために、8歳ぐらいまでの基本をすごく大事にしている。しかし、どうも私には、なぜ時間のかけ方から見ると、フィンランド人にとってあくまでもL2の英語があのように進んでいくのか、そしてイギリスの子どもの何パーセントかは、あのように時間をかけているのになぜ読み書きに苦労している姿があるのか。(話せるけど書けない、書けるが、バリエーションのある表現にならない)。これは、7不思議である。イギリスでは、上層社会の家庭は私立に行くということもあるのかもしれないが、公立はそれでも社会の縮図であろう。リタラシー教育は、学校の影響も大きいが、家での文字への触れ方や絵本の読み聞かせなど、家庭環境は影響が大きい。

 

母語としての英語は、当然、シェークスピアに代表されるように、世界に送り出す文学を支えるほど、物語を創作しているような母語力を育てており、フィンランドの場合はL2なので、ある程度実用範囲の英語とも言えるのだろうか。

 

また、今回、意識を新たにしたことは、イギリスは確かに移民の子供たちは多いが、そのせいでリタラシー教育が大変だという認識は違うと教わり、子供のノートを見てそう思った。移民の子供たちには熱心に学ぶ姿も多く、学校でのリタラシー教育は熱心なので、かなり伸ばしていると思う。移民か自国民かという違いの見方は、改めなければならない。寧ろ学びに向かう家庭であるかどうかが、大きいのだろう。

 

フィンランドの子どもは8歳までに、母語の本をよく読み、スキットを書いたり、演じたり、グループ学習を良くしている。幼稚園は逆に文字や数字などは強調してやらない(このあたり、研究実証からそうしているのだが)。幼稚園は、自主性を育て、Learner Autonomyを徹底して育てる。したがって、やや難しめのタスクを与えて、生徒が考えるのを先生は待ち、サポートするといっても、やってあげるのではなく、∔1になるようにファシリテートする。イギリスの先生方の場合は、そういう先生もいるが、個々で違う。「ノートが何ページか分からないとみると、手を出して代わりにページを開いてあげる。」「算数の答えが分からないと、やり方をサポートするより、手助けとヒントを出している」というように、あまり育児が分かっていない、お母さんみたいなのである。皆がそうではないが、これは、教員資格の取得法や、アシスタント教師が相当数入っているということが一因かもしれない。一見手厚く、人数が確保できているように見えるが、生徒のためには、T1でもT2でも出来る教師を、正当な給料で雇用すべきである。また、良い先生の「良さ」が他の同僚に上手く浸透していっていない。日本も同じ問題があるのだが、校内研修で授業を見合うことはあるが、同僚が同僚を教えることほど難しいものはなく、「あれ?」と思っても指摘しにくいところがある。フィンランドもそれは同じである。人間の社会はそうなる。だったらば、権威のある校長や管理職に評価をさせて、何とかしようとするのか、だったらば、全体の教員養成の質を保証し、国全体に厚い層の良い先生を確保するのか(給料体系も含めて良い人材層を教員へと誘い込む)、という違いがここにある。フィンランドでは、アシスタントも、心理士も、生徒指導のカウンセラーも修士号であるから、そのファシリテーションは何のためにするのかということを、理論と実践を往還して知っているのである。これも全員ではないが、そういう理念に基づいて指導できる教師の層が厚い。しかし、デメリットとしては、厳しい点数の評価制度やインスペクターはなく、日本のような公開授業研修も少ないので、やや、いつもと同じ授業で満足する先生も結構いる。授業にあまり凝らない。(だから、やっぱり評価制度・・・というのは、イギリスの公立の格差と惨状を見ると絶対違うと確信する)。わたしは日本の校内研修制度はたいしたものだと思っている。授業を公開すること、教員研修を同僚で計画し、Supervisorから学ぶシステムがなく、公開に慣れていない海外の学校は意外と多い。

 

総じていえば、Teacher Agency(教師の主体性ややりがい)が軸になっているのがフィンランドであり、政府がそれを招聘しているのである。

 

一方、教師の指導の質を高めたり学校が機能するように、点数評価にまわり、予算にも差をつけ、学校選択制度で、疲弊させてしまっているのが、イギリスであり、Teacher Agencyが尊重されてるとは言えない。

 

さて、日本はどうであろうか。もしかしたら、米国やイギリスの評価制度などを模倣しようとしていないだろうか。でも、政府のたまたま、教育担当者らが、イギリスの学校を視察したとしても、良い授業とそうでない授業の違いはあまり分からないであろうから、視察しても、評価制度の一見よさそうなところしか見えないのであろうな・・・財務省は、これで、予算に差をつけて、全体の教育予算枠は減らせると考えかねない。

 

わたしはフィランドに4か月いたわけだが、少しフィンランドに慣れすぎてしまい、フィンランドがなぜ、このような制度を考え保っているのか、改めて驚いたフィンランド帰国1日目である。

 

夜中に予約したタクシーは、きっかり5分前に待っていてくれ、25歳ぐらいの若者であるが、礼儀正しく、扉を開けてくれ、荷物を入れてくれる。チップ制度はなく仕事としてやってくれる。言葉遣いもきれいで、英語も上手い。フィンランドではタクシーの運転手は、一つの職種であり、家族を養う仕事でもあるのだ。この若者はフィンランドの教育で育ち、人とのコミュニケーションをきちんとするようになり、無料の学校を卒業するまでに英語も身につけ、この仕事をしている。私が、凍えないように、アパートメントに入るまで見届けてくれる運転手が多い。イギリスのタクシーは、昔は誇り高かったと思うが、私が告げた住所とは明らかに違う場所だったのだか、ここから歩けるよ・・といって、終わってしまった(スーツケース持って6分かかりました)。スーツケースは、ご自分で・・・と前に座ったままである。面倒くさそうであった。先生が自分の仕事に誇りを持つのと同じように、タクシーの運転手さんが誇りを持って仕事をする。そういう社会で子供が育つということに、フィンランドはもう2nd サイクルに入っている。人口も少ないから出来るのでは? と色々批判もあるようだが、フィンランドは、いまだ不思議である。

 

誤解のないようにと思うが、わたしはイギリスは大好きである。文化と教養にあふれた国であり、面白いものがたくさんある。しかし、社会での、「教育」「教員」の価値を上げない限り、また、イギリス以外の国からも少しは学ぶことがない限り、イギリスの将来は危ないのではないか。同じように日本もである。

 

記憶に新しい時しか書けないことあり、拙稿で申し訳ないです。

 

お互いの国の教育の強みと弱み、良さと改善点を知り、なぜそれが上手く機能しているかを理解するなど、もっと学ぶ機会が教員に必要だと感じます。エラスムス制度のように日本にも海外教員派遣交流が必要だと感じます。どのような評価制度は、学校を破壊してしまうのかも、世界の国が知る必要があると思います。